2022/08/27 15:42

 持ち主がいなくなった部屋の中でカメラを見つけた。
 瑠璃がこの家を訪れてから三日目のことだった。
 手のひらにすっぽりと収まるほどの小さな黒いカメラだ。側面からは同じ色のネックストラップが伸びている。スタンドライト、ペン立て、袖机、……。本来あるべきはずのものが取り払われた木製のデスクの中央にぽつりと佇んでいたそれは、瑠璃の目にはどこかもの淋しそうに映った。
(おじいちゃんのカメラ、かな)
 使い込まれているのか、カメラには無数の細かな傷が刻まれている。しかし決して汚れているわけではない。むしろ大切に手入れをされていたという印象を受ける。
 木造二階建ての祖父の家には、生活をするのに必要最低限のものしか存在していない。終活―いつ死期が訪れてもいいように、と、祖父が身体の動くうちにありとあらゆるものを処分してしまったのだ。余分な食器や衣類はもちろんのこと、書籍やアルバムなどといった類のものも一切残されていなかった。いなくなった家族たちの思い出に果たして執着はなかったのか。家の至るところに空っぽになったキャビネットやタンスが鎮座している光景は、いささか不気味にすら感じられる。
 だからこそ唯一残された祖父の私物に、瑠璃はほんの少しだけ興味をそそられた。
 しかし瑠璃は生まれてこの方カメラというものを一度も使ったことがなかった。一眼レフやミラーレスという種類のものがあり、いっとき「カメラ女子」なる存在がもてはやされていたことは知っているが、スマートフォンのカメラアプリがあればそれでじゅうぶんだろうと思っている。何より日常的に写真を撮るという習慣がないのである。SNSへの投稿にも「映え」にさえも興味はない。
(これ、どうやって使うんだろ……)
 瑠璃は手のひらの中でぐるぐるとカメラを回し見た。
 背面の七割ほどを占める大きなモニター。レンズはこの窓のようなところから出てくるのだろうか。様々な図柄や略語らしき英字が書かれたボタンがあちこちに設置されている。しかしどこを押せば何が起こるのか瑠璃にはさっぱり分からない。
 と、カメラの上部にアルファベットと数字の組み合わせが記載されていることに気がついた。もしかしたらこれはカメラの機種名だろうか。
 瑠璃は試しに発見した文字列をスマートフォンの検索エンジンに入力してみた。
 検索結果の一番上に表示されたページのリンクをタップする。……これだ。目の前にあるのとまったく同じカメラの画像が掲載されている。メーカーが作成した公式のマーケティングサイトである。
 画面を上下にスワイプしながら商品の概要を流し読みしていく。
 どうやら瑠璃が発見したのは、光学40倍という高倍率ズームを売りにしたコンパクトデジタルカメラであるらしい。プログレッシブファインズーム―なんのこっちゃ―を使えば80倍まで優れた解像感のまま撮影することができるのだという。F値を小さく押さえた状態で倍率を上げることができ、高速シャッターで―。
 専門用語ばかりで正直よく理解できない。しかしズーム機能に優れたカメラであるということだけは分かった。
 商品概要のページに取扱説明書のPDFデータが置かれていることを発見し、そこで基本的な使い方を確認する。カメラの各部位の名称、ズーム機能の使い方と撮影方法、撮影した写真を確認する方法、……。専門的な設定については追々確認すればいいだろう。
(……よし、)
 瑠璃は改めてスマートフォンをカメラに持ち替えた。バッテリーは入っている。SDカードも装着されている。ならばあとは電源を入れるだけである。
 おそるおそる「ON/OFF」と書かれたボタンを押すと、ウィーンという鈍い音に合わせて本体に埋め込まれていたレンズが伸びてきた。同時に液晶画面いっぱいに部屋の様子が映し出される。写真を撮ることだけに特化した小型機械―スマートフォンとはまた違う外形と重量感に、次第に気分が高揚してくるのを自覚した。
 果たして祖父はこのカメラで何を撮影していたのか。
 しかしSDカードには画像も動画もひとつとして残されていなかった。すべてのデータがきれいさっぱり削除されている。期待を裏切られた気がして瑠璃はがっくりと肩を落とした。どうせカメラを残すのなら撮影した写真も一緒に残しておいてくれればいいのに。
(……まあ、いっか)
 時刻は午前九時二十五分。まだ一日は始まったばかりだが、テレビも本もない家にたったひとりでいても退屈なだけである。せっかくだからこのカメラで何かを撮影してみよう。どうせ自分が使わなければ、処分されるまでこの部屋に放置されているだけなのだから。
 瑠璃はカメラのネックストラップを首に通しながら祖父の部屋を後にした。


 ここはなんて寒いところなのだろう。
 瑠璃は胸の前で両手をこすり合わせた。今朝の最低気温はマイナス十三度。手袋を着用しているにも関わらず、繊維の隙間から冷たい空気が侵入してきて指先を凍えさせる。頭上に広がっているのは青空だ。雲ひとつなく晴れわたり、太陽が眩しいほどの光を放っている。それなのにどうして気温が上がらないのだろうといつも不思議に思う。それだけ緯度が高いということか。
(わたしが知ってる三月じゃあない)
 瑠璃がこの町に来る直前、東京ではすでに菜の花や河津桜が咲いていた。ソメイヨシノもぽつりぽつりと枝につぼみをつけ始め、今年の開花は例年よりも早くなるだろうとテレビの気象予報士が嬉しそうに告げていたのを覚えている。色とりどりの花が咲き誇り、良くも悪くも心が浮き足立つ季節である。
 しかし今、瑠璃の目の前に広がっているのは紛れもない「冬」だった。
 東京ではほとんどお目にかかることのできない無彩色の雪景色。公道は綺麗に除雪されていて歩くのに困難はないが、邪魔者扱いされた雪が車道と歩道の間にうずたかく積み上がっている。まるで山脈のようだった。おまけに人が出入りしない場所―空き地なのか畑なのかは区別がつかない―は、大量の雪が降り積もったままである。こうして冬の間、ずっと解けずに残り続ける雪のことを根雪というのだそうだ。
 瑠璃が滞在しているのは東京から直線距離にして九〇〇キロほど離れた北海道のN町である。十勝地方の東部に位置しており、人口は約三千人、観光協会のホームページによると、小麦と豆の生産が盛んであるらしい。近くに大きな山はない。そのおかげで視界は開けているが、どこか密閉されたような印象を受ける町である。瑠璃の祖父が生まれ育ち、そして今、死にゆこうとしている場所―。
 ―おじいちゃん、もう駄目かもしれない。
 母からそんな電話がかかってきたのは、今からちょうど一週間前のことだった。
 もともと祖父はN町でひとり暮らしをしていた。ところが二年前の冬に転倒して左大腿骨を骨折し、それをきっかけに母が単身N町に移住をして祖父の介護をすることになったのである。
 思い切った母の行動に驚かなかったと言えば嘘になる。
 しかし当時の瑠璃は高校三年生で、すでに東京にある大学への進学が決まっていた。そのため母の決断に反対する理由は持ち合わせていなかった。家庭を省みない仕事人間の父が何を思っていたのかは分からない。彼だけがひとり、今でも家族三人で暮らしていたF県の実家で生活を続けている。
 ―もう駄目、って、死んじゃうってこと?
 母から連絡をもらうまで、瑠璃は自分の祖父がどのような状態にあるのかをまったく把握していなかった。脚の骨折はとっくの昔に完治して、母と一緒に自由気ままな老後生活を送っているのだとばかり思い込んでいた。瑠璃が高校を卒業した時から、いや、本当はその前からずっと、瑠璃の家族はバラバラだったから。
 約二年振りに耳にした母の声は話の内容とは裏腹に酷く淡々としていて、それがかえって瑠璃の感情を刺激した。懐かしさなど微塵もこみ上げてはこなかった。
 幸か不幸か通っている大学はすでに春休みになっていた。アルバイト先の店長と同僚たちに頭を下げて、単身とかち帯広空港に降り立ったのが二日前の夕刻。母がF県にいる夫に連絡をしたのかは知る由もない。
 北海道に到着してから二日目―つまり昨日だ―瑠璃は二十歳にして初めて祖父と顔を合わせた。N町で生まれ育った祖父は、人生で一度も北海道を出たことがないのだという。そして瑠璃が知る限り、両親が北海道に帰省をしたことは一度もない。
 幼い頃は、小学校のクラスメイトたちから里帰りをしたという話を耳にする度に、彼らのことを羨ましいと思っていた。しかしそれを両親の前で口にすることはできなかった。一緒にテレビドラマを観ている時。近所の人たちと話をしている時。ふとした瞬間の表情や言葉の端々から、彼らが「家族」に関する話題を避けていることを幼心に感じ取っていた。
 両親と祖父母の間に一体何があったのか。しかし訊いても答えが返ってくることはないのだろうと思っている。
 パシャリ、
 瑠璃は撮影したばかりの写真をカメラの液晶画面で確認した。
 青空いっぱいに腕を伸ばした冬木立。水面が凍り、その上に雪が降り積もった白い河川。民家の軒先から垂れ下がったいくつもの氷柱が陽光を反射している。しかしどれだけうつくしいと思うものを写真に収めてみても、期待していた以上の感動は生まれてこない。
 これではスマートフォンで撮った写真とほとんど変わらないではないか。
 瑠璃は次第にカメラに対する興味が薄れていくのを自覚した。これ以上出歩いていても、得られるものはなさそうだ。何よりあまりの寒さに手がかじかんでカメラをうまく扱えなくなってきた。そろそろ帰路についたほうがいいだろう。母はよくこんなところで二年間も暮らしているものだと驚きを通り越して感動すら覚えてしまう。
 写真を撮ることをやめると帰り道はあっという間だった。
 二十メートルほど先の交差点を曲がれば祖父の家にたどりつくというところまで来た時、どこからともなく耳慣れない物音が聞こえてきた。コンコン、という何かを叩くにも似た軽い音だ。まるで扉をノックする時のような―。
 コンコン、コン、
 これは一体何の音だろう。
 瑠璃はその場に立ち止まり、耳を澄ませた。
 コンコン、
 どうやら物音は空から降ってきているらしい。
 視線を上げてきょろきょろと辺りを見回した。民家の屋根に設置されたアンテナ、ベランダの物干し棹、郵便ポスト、……あれだ。葉をすべて落とした街路樹の太い枝に、一羽の鳥が止まっている。細長いクチバシを持った白黒の鳥だ。それが首を前後に動かし、クチバシで木をツツいているのである。
 瑠璃は顔を上げたままぼんやりとその様子を眺めた。
 コンコン、コンコン、
 クチバシが木に打ちつけられる度に、小気味よい音が青い空の下に響きわたる。彼(それとも彼女?)は、一体何をしているのだろう。いわゆるキツツキという種類の鳥かもしれない。巣穴を作ろうとしているのか、それとも餌となるものを探しているのか。
(……そうだ、)
 首から提げた物体の存在を思い出し、瑠璃は急いで両手にカメラを構えた。指を伸ばして電源ボタンをオンにする。
 確か、このデジタルカメラは高倍率ズームが売りだったはずだ。
 構えたカメラのレンズを街路樹へと向けて、液晶画面に鳥の姿を映し出す。かじかんだ指先でズーム機能を持ったレバーを操作する。するとそれまで豆粒のようにしか見えていなかった鳥が、みるみるうちに画面の中で大きくなっていった。
 すごい―!
 瑠璃は見えない何かに突き動かされるようなおもいでシャッターボタンを押した。二度、三度。その間も鳥は平然とした様子でクチバシを枝に打ちつけている。
 もっと近くで鳥を観察してみたい。
 そう思った瑠璃は、その場から一直線に街路樹へと向かって近づいていった。
 しかしそんな瑠璃の存在に気がついたのか、鳥は枝から頭を離し、あっという間にどこかへと飛び去っていってしまった。黒い影が青空に吸い込まれるようにして消えていく。
(……あーあ、)
 残念だなと思うのと同時に、鳥を驚かせてしまったことに対してほんの少しだけ申し訳ない気持ちになった。
 あれは一体何という名前の鳥だったのだろう。
 瑠璃は逸る気持ちを抑えきれずに、歩道の隅っこで立ち止まったまま撮影したばかりの写真を確認した。どうやら光学40倍というズーム機能は伊達ではないらしい。そこには肉眼で見るよりもずっと鮮明な鳥の姿が映し出されていた。
 二本の脚でがっしりと枝にしがみついた鳥が、今まさにクチバシを打ちつけようと頭を振りかぶっている。白いおなかと黒い羽。その上に規則的に並んだ白い模様がお洒落である。黒々とした丸い瞳が愛らしい。肉眼で見ていた時には気がつかなかったが、下腹部と後頭部だけが鮮やかな紅の色に染まっている。
 身体の底からふつふつとわき起こってくる小さな喜び。
 この写真を撮影したのは、わたしだ。
 一度失ったはずのカメラへの興味が、目にしたばかりの鳥への興味と一緒になって胸の中に押し寄せてくる。
 瑠璃は急ぎ足で家に帰ると、ダウンコートのポケットからスマートフォンを引っ張り出した。防寒具を身につけたまま検索エンジンに鳥の特徴を打ち込んでいく。
 北海道 鳥 冬 赤
 左手にカメラ、右手にスマートフォンを握り締め、検索結果に表示された様々な画像と自分が撮影した写真の鳥を見比べる。違う。違う。違う。……これだ。細長いクチバシと、モノクロの身体に乗った印象的な紅の色。目にした鳥と瓜二つの姿がスマートフォンの画面の中に映し出されている。
 キツツキ目キツツキ科、エゾアカゲラ。
 餌は木の幹に巣食う昆虫類やその幼虫、種子や果実など幅広い。落葉広葉樹林や針広混交林で樹幹に穴を掘って巣にするが、市街地の公園や緑地などでも容易に目にすることができる―。
「エゾアカゲラ、かあ」
 瑠璃は知ったばかりの名前を声に出して呟いた。それに応える言葉はない。しかしその名前が自ら写真に収めた姿とともに、じわじわと身体の奥深へと浸透していくのを感じていた。

(第1話「氷の足跡」へ続く)