2022/08/27 15:42

 なんて青い空なんだろう。
 それが、写真をひと目見た時の第一印象だった。
「ただいまー」
 玄関で運動靴を脱ぎ捨てて居間に向かうと、ダイニングテーブルに一枚のポストカードが置かれていた。色鮮やかな写真が上向きになっている。悠哉は右手の指先でポストカードを取り上げた。
 印刷されているのは湖と山の写真であった。真っ青な空を背負って、新緑を身にまとったふたつの山。それだけでもうつくしいのに、手前側に広がる湖が、まるで鏡のように空と山々とをその水面に映し出している。水の清らかさと光の加減の相乗効果か、水鏡に映った空は吸い込まれそうなほど深い青色に染まっていた。
 なんて青い空なんだろう。そう思うのと同時に、ああ、またか、と。どこかうんざりとした気持ちがわき起こってくるのを抑えられない。かつてはポストカードが届く度に「あなた宛にハガキが届いているわよ」と母が教えてくれたものだが、ここ最近では無言でテーブルの上に置かれるだけになっている。
 悠哉はポストカードの表面に視線を走らせながら、居間と隣接している自分の部屋へと向かった。
 約一週間に一度の頻度で送られてくる写真つきのポストカード。差出人はいつも一緒だ。悠哉自身は利用したことがないが、スマートフォンで撮影した写真をコンビニエンスストアの多機能プリンターを使って郵便ハガキにすることができるのだという。同じクラスの女子生徒に教えてもらった。
 お元気ですか。
 ポストカードの表面には、宛先と差出人の情報の他に、決まって数行のメッセージが書かれている。しかし相手の安否を気に掛ける言葉が冒頭に置かれている以外は、そのほとんどが裏面の写真に関する説明だった。それはまるでSNSに投稿する日記にも似て、他人からの反応を期待しているとは到底思えない内容の文章がただ書き連ねられているだけである。
 このポストカードの差出人は、一体何を考えているのだろう。一体何を、相手に期待しているというのだろう。悠哉にはそれが分からなかった。何しろ、自分は一度も手紙の返事を書いていないのである。
 はあ。ため息をひとつ落として、悠哉はポストカードを学習用デスクの一番下の引き出しに放り込んだ。引き出しの中には、すでに十枚近いポストカードが溜まっていた。

     *

 お元気ですか。今日は母の運転でオンネトーという湖に行きました。名前はアイヌ語で「年老いた沼」という意味だそうです。「五色沼」とも呼ばれ、鏡のような湖面に空の青や山の緑が映る姿は絶景です。僕のように写真を撮っている人たちがたくさんいました。今は新緑の季節ですが、紅葉を迎える秋にもまた訪れてみたいです。

     *

 悠哉の元に初めてポストカードが届いたのは、高校の入学式が終わったちょうど一週間後のことだった。その頃には遅咲きだったソメイヨシノの花もすっかり散り終え、春の浮かれた雰囲気がようやく落ち着きを取り戻し始めていた。
「あなた宛にハガキが届いているわよ」
 学校から帰宅すると、母が一枚のポストカードを手渡してきた。一体誰からだろう。悠哉は訝しみながらも無言でそれを受け取った。
 ポストカードの裏面には雪景色の写真が印刷されていた。真っ白な雪の花を咲かせた枯れ木立の隙間を縫うようにして、一本の小川が流れている。色彩を持たないモノクロームの世界。それを目にした瞬間に、まるで季節がひとつさかのぼってしまったかのような錯覚に陥った。悠哉が暮らしている東京二十三区では決して見ることのできない風景である。素直にきれいな写真だと思った。
 一体ここはどこだろう。
 表面に返して差出人の住所を確認する。そこにはほんの少し右肩上がりの丁寧な字で、北海道の聞いたことのない町名が記載されていた。悠哉は思わず眉をひそめた。北海道に知り合いなどいただろうか。小林悠哉様。しかし、宛名に記されているのは確かに自分の名前である。どうやら間違って届いたわけではないらしい。
 差出人の名前は「伊東弘道」となっている。
 伊東。……伊東?
 悠哉は必死で記憶の糸を手繰った。
(……あの伊東、か?)
 該当する人物にはすぐに思い至った。
 中学生だった時の同級生にひとりだけ、伊東という苗字の男子生徒がいた。しかし彼が突然自分に手紙を書いて送ってきた理由が分からない。伊東とは一度も同じクラスになったことがなかった。会話らしい会話をしたことさえ一度もなかったはずだ。そして何より、どこで悠哉の住所を調べたというのか。
 ―ねえ。きみの住所を教えて。
 不意に耳の奥で少年の声がよみがえってきた。鼓膜を揺さぶる雨音。汚れた靴下に滲んだ赤の色―。
 ……そうだ。悠哉自身が伊東に自宅の住所を教えたのではないか。
 途端に眠っていた記憶が洪水のように頭の中に押し寄せてくる。
 あれは確か、ちょうど一年前、中学校三年生の六月の出来事だった。関東甲信越で梅雨入りが発表された次の日で、朝からうっとおしい雨が降り続いていたと記憶している。
 学校からの帰り道だった。その日、悠哉は頭痛が酷くて所属しているバドミントン部の練習を休んでいた。しとしとと降りしきる雨は勢いこそないものの、全身にまとわりついてくるような湿度の高さが不快だった。濡れたアスファルトは運動靴を踏み出す度にパシャリパシャリと音を立て、跳ねた雨水が制服の裾を汚した。
 十メートルほど先の歩道に、小さな紺色の傘を差して歩いている少年の背中が見えていた。後ろ姿のため顔までは分からないが、身につけている制服が悠哉のものと一緒である。それだけなら大して気に留めることもなかっただろう。しかし少年はどういうわけか、靴を履いていなかった。元は白であっただろう靴下は雨水と泥にまみれ、右足の踵あたりに赤い色が滲んでいる。尖った石やガラスの破片などで足の裏を切ってしまったのかもしれない。そんな少年の姿をあざ笑うように、大型トラックが水しぶきを上げながら通り過ぎていく。
「ねえ、きみ、靴はどうしたの?」
 なけなしの勇気を振り絞り、悠哉は赤信号で追いついた少年の背中に声を掛けた。悠哉よりも頭半分ほど背の低い、小さな背中だった。
 振り向いてきた少年は、悠哉の顔を見て酷く驚いた表情を浮かべて見せた。しかしすぐに視線を落としてうつむける。悠哉の予想に反して彼の瞳に涙は浮かんでいなかった。
 しばしの沈黙の後、ようやく薄い唇からか細い声がこぼれ落ちてきた。
「ちょっと……なくしちゃって」
 一体どんなことが起きたら靴を失くすというのか。不思議に思ったが、頭痛で思考がぼんやりとしていてそれ以上のことを考えられない。とりあえず少年が靴を持っていないことだけは確かだ。悠哉は右手で握っていたビニール袋から体育館用の運動靴を取り出すと、雨に濡れないよう傘を傾けながら少年の前に差し出した。
「これ、履いて帰りなよ」
 すると少年はぽかんと口を開けたまま悠哉の顔を見上げてきた。驚きや困惑などの様々な感情がまぜこぜになった表情だった。
「え……いいの?」
「うん。ちょっとサイズが大きいかもしれないけど、我慢して。あと、靴は別に返してくれなくても大丈夫だから」
 悠哉は相手に反論の余地を与えないよう早口でまくし立てた。視界の端で、歩行者用の信号が青に変わっているのが見えていた。この信号は青が短い。ぐずぐずしていると交差点を渡り損ねてしまいそうだった。
「それじゃ」
 悠哉は未だに戸惑いを隠せないでいる少年を置き去りにして歩き始めた。人助けをするつもりはさらさらない。しかし彼が足の怪我が原因で事故にでも巻き込まれてしまったら、そしてその事実を後から自分が知ったとしたら、きっと後味の悪い思いをするだろう。そう考えただけのことだった。
 横断歩道を渡り終えたところで、後ろからバシャバシャと大きな足音が聞こえてきた。
「ねえ」
 歩みを止めて振り向くと、先ほどの少年が小走りで悠哉を追いかけてきていた。その両足には先ほど手渡したばかりの運動靴が履かれている。やはりサイズは合っていないようだが、ないよりはまだマシだろう。少年は悠哉の目の前で立ち止まり、肩で荒く息をした。点滅していた歩行者信号は再び赤の色に変わっていた。
「どうしたの」
「きみの住所を教えて」
 今度は悠哉が困惑する番だった。
「……なんで?」
「借りた靴、ちゃんと洗って返すから」
 悠哉の目をまっすぐに見つめてくる少年の顔は、驚くほどに真剣な眼差しをしていた。
 少年に渡した運動靴は、サイズが合わなくなって買い換える予定のものだった。そのため本当に返してもらう必要はないのだが、この調子では何を言っても少年の気持ちが変わることはないだろう。不思議とそんな確信があった。
 仕方なく悠哉は少年から差し出されたスマートフォンを受け取り、アドレス帳に名前と住所を入力した。電話番号やその他の連絡先は記さなかった。
 スマートフォンを返却すると、少年は嬉しそうに両の手で受け取った。それは彼が悠哉に見せる初めての笑顔だった。
「ありがとう」
 そうして悠哉と少年はそれ以上言葉を交わすことなく交差点で別れた。彼はしばらく悠哉の背中を追いかけるようにして数歩後ろを歩いていたが、いつの間にかその足音も聞こえなくなっていた。
 翌朝。学校の生徒玄関で見覚えのある少年の横顔を見つけた。生徒玄関は学年毎に下駄箱の位置が決められている。同じ学年だったんだな。悠哉はぼんやりとそんなことを思った。伏し目がちの瞳。真一文字に引き結ばれた唇。少年は朝だというのに酷く暗い表情を浮かべていた。そうして周囲にいるクラスメイトらしき生徒たちと一切言葉を交わすことはなく、ひとりで教室のほうへと向かって歩いていってしまった。
「なあ、今のヤツなんて名前か知ってる?」
 一緒に登校してきた友人に尋ねると、小さな声で伊東弘道という名前が返ってきた。通っていた小学校は別で、今までに一度も同じクラスになったことのない生徒である。悠哉がその存在を知らなかったのも無理はない。
 友人曰く、伊東はクラスでいじめに遭っているのだという。
(……ああ、それで)
 雨の中、靴を履かずに歩いていた理由がようやく腑に落ちた。悠哉が声を掛けた時の驚きも、住所を教えた時の喜びも。
 ―借りた靴、ちゃんと洗って返すから。
 しかしどんなに待っていても、伊東から靴が返ってくることはついぞなかった。

(第1話「この街の空の色を知らない」に続く)