2022/08/21 08:43

 全身が生暖かい空気に包まれた。プシュウ、と音を立てて扉が閉まり、車両が徐々にスピードを上げながら遠ざかっていく。
 改札口はひとつだけ。自動改札機を通り抜け、東口から駅舎を出ると正面にセブンイレブンがある。右折をし、線路に平行して伸びる市道を南に向かって直進する。道の左側には駅前公園が広がっている。道なりに歩いてひとつ目の交差点――目印はファミリーマートだ――を左手側に曲がり、さらに直進。今度はふたつ目の交差点を右折し、二十メートルほど歩いていくと、左側に店の看板が見えてくる。それがホームページに掲載されている地図から読み取れた情報だ。
 カフェ、ゴーズ・オン。
 店名となっている「goes on」とは、物事が続く、進み続けるという意味である。店主がどのようなつもりでこの成語を店名に選んだのか、その理由はホームページには掲載されていなかった。
 ピッ。ICカードをかざして自動改札機を通り抜ける。土曜日の午前九時十五分。利用客の姿はまばらだ。しかし今は閑散としている小さな駅舎も、平日の朝ともなれば通勤通学で電車を利用する客が賑わいを見せるに違いない。
 記憶の中の地図通り、東口の正面にはセブンイレブンがあった。新設されたばかりなのか、看板も店のガラス窓もやけにぴかぴかと光って見える。セブンイレブンの左手には個人経営らしい小振りな書店や蕎麦屋、クリーニング店などの店舗が数軒立ち並んでいた。軒先の蜘蛛の巣。薄汚れた外壁。古めかしい印象の商店街と、真新しく見えるコンビニは実に対照的だ。まさに今、駅前を再開発している最中なのかもしれない。
 セブンイレブンを基点に、商店街とは反対方向へと市道を歩き始める。十秒ほどですぐに駅前公園が見えてきた。小学校にある体育館の半分くらいの面積で、すべり台、ブランコ、鉄棒といったひと通りの遊具が設置されている。小学校に上がる前くらいの小さな男の子が三人、青いボールを蹴って遊んでいた。甲高い笑い声と、共に互いの名前を呼び合いながらボールを蹴る姿が微笑ましい。地図を見て最低限の情報を持っていても、実際に訪れてみないと分からないこともある。
 そのまま道なりに進んでいくと、交差点の角にファミリーマートが見えてきた。駅前のセブンイレブンとは異なり、乗用車数台とトラックを停めてもまだ余りある広さの駐車場を備え持っている。車で来店する客が多いということなのだろう。
 都内にある自宅アパートの最寄り駅から地下鉄に乗り、五つ目の駅でJRに乗り換える。そこから十駅目で今度は私鉄に乗り換え、さらに八駅。約一時間半の道程の果てにたどりついた小さな駅は、閑静な住宅街の中にあった。店舗は駅前を離れると姿を消し、視界に入るものは一軒家とアパートばかりになる。休日の午前中ということもあってか歩行者は少なく、公園を離れた途端に人の声はまったく聞こえなくなった。これも実際に歩いてみないと分からないことのひとつ。
 晩春のやわらかな風が髪を揺らして通り抜けていく。
 おとついまでは存在すら知らなかった街を訪れることになったきっかけは、昨夜ベッドの中で何の気なしに眺めていたSNSだった。
 オトナシカオル、初個展『Q to Blue』5月24日(金)~26日(日)9:00~19:00、会場:カフェ、ゴーズ・オン(M駅東口より徒歩7分)
 流れてきたツイートには最低限の情報しか書かれておらず、ほとんど興味をそそられなかった。その宣伝に文章しかなかったならば、そのままスルーしてしまっていただろう。記憶に残ることすらなかったはずだ。……それなのに。
 横長の長方形いっぱいに塗りたくられた、様々な濃淡のあおの色彩。
 愛想のない宣伝文に添付されていた絵画の画像に、一瞬にして心を奪われた。数分間に渡ってスマートフォンの液晶画面を凝視し続けた。気がついた時には個展の会場となるカフェへの行き方を調べていた。
 名前すら知らない作家の個展にどうして興味を持ったのか。今となってはよく分からない。元々絵画というものに対して関心が薄く、美術館を訪れたこともほとんどない。それでもかろうじて水彩画と油絵を見分けることができる程度の教養は持ち合わせていた。オトナシカオルという作家は油絵――その中でもあお色の絵の具を使った抽象画を得意とする作家であるらしい。デジタルデバイスの画面越しに見たあお色の絵画を、どうしてもこの目で実際に見てみたくて仕方がなかったのである。
 目印のファミリーマートを左折してまっすぐに歩き続ける。次のポイントはふたつ目の交差点だ。該当の信号機が赤色の明かりを灯しているのが見えた。地図でイメージしていたよりも遠くに感じられる。おそらく「徒歩七分」というのは脇目も振らずに歩き続けた場合の時間なのだろう。昔から知らない場所に来ると、ついきょろきょろと辺りを見回してしまう癖があった。自然と歩く速度は緩み、「徒歩七分」が何分前に過ぎ去った時点なのかは知る由もない。
 住宅街を飾る街路樹はハナミズキである。時期があとひと月ほど早かったならば、きれいな白と薄紅色の花を拝むことができただろう。垣根のアジサイが咲き始めるにはまだほんの少しだけ早いらしい。樹木の種類は知らないが、民家の軒先から覗いた新芽の緑が鮮やかだ。
 不意にゴォという音が上空から聞こえてきた。見上げると、雲ひとつない澄んだ空を小さな飛行機が横切っていった。一体どれだけの乗客を運んでいて、彼らは一体どこへ向かうのか。その時になってようやく、空がとてつもなく広いことに気がついた。一軒家が多い住宅街の中、ところどころに建設されたアパートも、二階建てと三階建てのものがほとんどである。
(……そういえば、)
 ここ二ヶ月ほどは仕事が繁忙期で忙しく、土日出勤が続いていた。地下鉄の駅直結のオフィスビル。勤務中に窓の外を眺める精神的な余裕はなく、帰宅する頃にはとっぷりと日は暮れている。青空というものを、ここしばらくの間、ついぞ見た記憶がない。そのことさえ意識できていなかった。だからなのかもしれない。数多流れてくる情報と画像の中から、あのあお色の絵に心が惹かれたのは――。
 目的地であるカフェ、ゴーズ・オンは、古めかしい二階建ての木造アパートの隣りにあった。壁面はパステル調のタイルで覆われていて瀟洒だが、びっくりするほど間口が狭く、磨りガラスがはめ込まれた入り口扉からは中の様子が窺えない。一見の客ではなんとなく入りにくい雰囲気だ。本当にここで画家の個展が開かれているのだろうか。
 ――と。入り口脇の足もとに、A3サイズほどのコルクボードが置かれていることに気がついた。『Q to blue』、見覚えのある抽象画が印刷されたフライヤーが留められている。ここだ。そう確信した次の瞬間には木製の入り口扉を開けていた。
 ガラン、ガラン、
 扉に取りつけられた古風な鐘が鈍い音を奏でる。
「こんにちはー……」
 おそるおそる足を踏み入れると、店内には客はおろか店員の姿さえ見当たらなかった。すでに営業時間は始まっているはずだが。その一方でほっと胸を撫で下ろす。誰もいないと分かれば堂々と店の中を見回すことができる。
 間口の狭いカフェはその代わりと言わんばかりに奥行きがあった。ウナギの寝床間取り、というヤツだろうか。中に入ってすぐ左手側に四人掛けのテーブル席がひとつ置かれているだけで、あとはその奥に五人分のカウンター席があるだけのシンプルな内装だった。白塗りの壁は目に眩しいが、その分天井の照明が抑えられているため落ち着いた印象を受ける。カウンターの中には簡易キッチン。扉のない食器棚に置かれた色とりどりの器やティーカップはただの飾りだろうか。それとも実際に使われているのか。客が誰もいない状態では判断することができない。
 カウンターとは反対側の壁には、一面に額に収められた絵画が飾られていた。
 大小様々なキャンバスが全部で十五枚。そのすべてがあお色の絵の具で描かれた抽象画であった。個展ということは、ここにある絵はどれもがひとりの作家の手によって描かれたものであるということだ。オトナシカオル。彼――彼女だろうか、が、ひとりアトリエに籠もり、一心不乱にキャンバスに向かってあお色の絵の具を塗りたくっている姿は鬼気迫る様子だ。もちろんただの想像である。
 圧倒的なあおの存在感に気圧されながら、ぼんやりと壁に掛けられた絵を眺めていった。
 out to the blue.
 青の争い
 額の下には小さなプレートが取りつけられており、絵画のタイトルと制作年月日が刻まれていた。右上に貼られた青いシールは売約済みの印だろうか。個展はまだ二日目が始まったばかりのはずだが、すでに半数ほどにシールが貼られている。プレートに記載された値段が妥当なのかどうかはよく分からない。
(……これだ)
 壁のちょうど真ん中あたりに、ひと際大きなキャンバスが掛けられている。目にした瞬間にさっと全身が粟立った。ばくばくと心臓が高鳴り始める。それはSNSの宣伝画像として使われていた抽象画であった。
 タイトルは――「青に問う」。
 真っ白いキャンバスは様々な濃淡のあお色で塗り潰されていた。薄い水色が全面に広がっていると思えば、あるところでは目の覚めるようなコバルトブルーのしずくがこぼれ落ち、あるところでは黒にも近い濃紺の波がうねりを打ち続ける。それは場所によって様々な顔と表情を見せていた。真昼の空、荒れた海、夜の湖面、鮮やかなシネラリア――青色から連想されるありとあらゆるものが描かれているようにも、同時にこの世に存在する何モノでもないようにも見える。
 これは一体なんなのだろう。
 吸い寄せられるかのごとく、視線はその絵に釘づけになった。心が奪われ、一歩も足が動かせない。一秒一秒と時が進んでいることも忘れ果て、一枚の絵を眺め続けた。



(第1話「青に問う」へ続く)